九年まえに行ったときは東京で式を済ませて式服のまま自動車を牛久、土浦、石岡、柿岡と、秋晴の野を丘を走らせたから板敷山は越えない。かっきり暮れてから着いた。そしてもいちど村での式を挙げたのである。
 仲人の私のまえに五人の老人が、先頭は手ぶらで次は一升徳利を三人めは鯉のいきづくりの鉢を四人めは鶴亀の島台を捧げて、つぎつぎとあらわれては禿げた頭を物堅くさげ、みるみる品物と人々の位置が定まると、手ぶらと思った先頭の老人はいつのまにか二個の丹塗の大椀を手にしており、一つを膝そばに置き一つを捧げて私に差す。この地方の作法について新郎はなにひとつあらかじめ教えてくれてはいなかった。この五人の老人が徳川時代以来の五人組の遺風であるということもあとから教えてくれたのである。

 妻は病牀に臥し児は飢に号くと詠った梅田雲浜の貧乏は一通りのものではなかった。姪の矢部登美子に雲浜みずから述懐した話というのに、信子が嫁にきた時分(弘化元年雲浜三十四歳)、自分はこの京都にある藩校望楠軒で講主をしていたが、赤貧洗うがごとくで、妻帯なぞは思いもよらぬ。かたく断わったが、立斎先生(上原立斎)は娘をどうでも貰ってくれといって、他に許婚までしてあったのを破約して無理やり信子を押付けてしまった。むろん信子が才色兼備の女だとは、かねて知っていたものの、まだ二十歳に足らぬ女で、どうするだろうと危ぶんでおった。そのうちに長女竹子をあげる(弘化三年)、家はますます貧乏になる、たった二畳敷の浪宅に親子三人が、日に一食か二食で暮せるうちはまだしもよかったが、後にはそれさえ窮して、『大日本史』数葉を書写して門人の鳴尾(順造)に二朱で売ってやっと粥を炊いて凌いだこともあった。信子は辛がりもせず、事足らぬ住居なれども住まれけりわれを慰む君あればこそ、などと詠み、いじらしい心根であったと、暗然として亡妻をしのんだ。

 自然に反するどころではなかった。鉄造船は同じ図体の木造船にくらべてかえって総重量は軽いことがわかった。
 当時の技術をもってして鉄造船の場合船体および艤装を合わせて重量は排水トン数の三十パーセントで済んだが、木造船の場合は四十パーセントだった。
 鉄造船は同一トン数の木造船より四分の一だけ軽く済んだ、したがってそれだけ貨物積載量が殖えた。
 耐久力の上ではいうまでもないが、一八三四年に鉄造船ガリイ・オーエン号が処女航海で暴風を喰った。ほかの木造船は完全に難破したがこの船だけは無傷だった。
 それでもまだ諸国逓信省は郵便物の托送を頑として鉄造船にたいしては拒みつづけた。「自然に反する――浮ぶはずがない」という以前の曰くの代りに「自然に反する――コンパスを狂わせる」という信条だった。一八五四年にメルボルン行の鉄造帆船テイラアがラムベイ・アイランドで霧のため難破して三百三十四人死んだ。もってコンパスにたいする憂いの実証とされた。
 世界に君臨する大英国海軍ですら、鉄造戦艦をはじめて持ったのが一八六〇年である。